ホットコーヒー
最近は節約を心がけており、会社に行くときも、お弁当と水が入ったボトルを持参する。
休憩室でお弁当を食べた後、唯一の楽しみはコーヒーマシーンで90円のホットコーヒーSサイズを買うこと。
諸々を0円で抑えた日における90円は、とても貴重なものに思える。
今日の休憩時間も、例のごとくコーヒーマシーンへ90円を支払い、抽出されたコーヒーが入ったカップと、プラスチックのフタと、砂糖とマドラーを持って適当な席へ移動した。
砂糖を入れて、マドラーで軽くかきまぜる。フタをする…………………
フタが、うまくしまらない。
上からちゃんと押さないとしまらないんだ、こういうやつは。でも口が触れるところをさわりたくない(コロナ的な意味で)
右を押すと左が浮く。左を押すと、また右が………………………
と、うっかり力が入り、カップがひっくり返った。
足元の床と、イスにコーヒーがビシャッッ!とかかった。
ビシャッッの音にかさねて、自分も「あっ」という声が出る。
ビシャッッと「あっ」に驚いた近くの席に座る人々が、こちらを振り返った。
周りの視線を振り切るかのようにペーパータオルを取りに走り、一心不乱に床に押しつけた。何枚も押し付けた。テーブルの上にもコーヒーの池が出来てしまったので、同じように何枚も何枚も押し付けた。
アルコールスプレーを吹きかけ、テーブルを拭き上げると、ゴミと荷物を抱えてさっさと休憩室を出た。
カーペットにシミが出来てしまったかもしれない。
自分の服にかかったところも、シミになってしまうかもしれない。
ああ、みじめだ。90円のコーヒーにもありつけないなんて。
なんでこんなことになるんだ。わたしはただコーヒーをちょっとばかし、いただきたかっただけなのに。
職場に戻るエレベーターの中で、ひとりしゃがみ込んで、泣くのをこらえた。もう家に帰りたい。今日は絶対にダメな日だ。
ところが、午後の仕事は思いのほか捗った。
なかなか返事がなかった人から質問の回答が届き、止まっていた仕事が動き出した。
いつも忙しくてなかなか捕まえられない人と、細かい打ち合わせをできた。
久しぶりに仕事を楽しいと感じられた。プラマイゼロ、どころか、少しプラスだったかもしれない。
ミスタードーナツ
普段はあまりミスドへ行く機会はない。ではなぜ、休日の朝9時から最寄りの店舗へ張り切って歩いたか。
そう、それは季節限定の「さつまいもド」シリーズを買いに行くためだった。
"じゅわっと"した甘さが特徴で、「蜜いもド」という呼称に分類されるのが次の3つ。
・さつまいもド 焼き蜜いも風
・さつまいもド 蜜いもブリュレ
・さつまいもド 蜜いも
"ほくほく&しっとり"な食感がまるでさつまいものそれである、「ほくいもド」に分類されるのが次の2つ。
・さつまいもド 大学いも
・さつまいもド スイートポテト
これらを、売り切れる前に、1種類につき1個ずつ、買って家に持ち帰り、アイスコーヒーを牛乳で割ったやつと一緒にいただくのだ!!!
という意気込みだけでベッドから飛び起き、身支度もそこそこに家を飛び出したというわけである。
無事に最寄りの店舗に到着する。1人で飲み物とドーナツを傍におき、勉強や仕事をする客が多い。朝なので人は少ない。
どきどきしながらショーケースの前に立つ。ツヤっとした紫色のグレーズに覆われたドーナツ。見るからに「大学いも」な出立ちで、テカテカとこちらを誘惑するドーナツ。黄色いスイートポテトクリームがトッピングされたドーナツ・・・。季節限定のさつまいもド シリーズの輝きに心が躍る。
早る気持ちをなだめながら、愛しいそれらをひとつずつ、トングで端から掴んではトレーに乗せていく。
3つめにトングが掴んだのは、さつまいもド 大学いもだった。見るからにトロッとしたタレがなお光る。手前に倒れるそれをひとつ、トングで掴みかかったその時、すぐ隣の大学いもにトングが触れた。
大学いもはひとつひとつに小さく切り取られたビニールが当てられて、タレが余所につかないように工夫されている。が、そのビニールに保護されていない部分、生身の大学いもに触れてしまった。
タレがついたトングはそのままビニールをひっぺがした。いかん、これを買い取るしかない。他の大学いもに迷惑をかけぬよう慎重に、丸腰になった大学いもをトレーへ避難させる。
問題はこのトングだ。あと2つドーナツを回収しないといけないが、タレでもうベタベタだ。
交換しようと反対方向へなおり、順番待ちレーンを逆走する。方向転換した瞬間、おじさんとぶつかりそうになり、迷惑そうな顔をされる。
最初の位置に戻って、新しいトングを手に入れる。しかし自分が歩を進めたり、新しいトングをショーケースに向けてのばしたりするたび、トレーの上のタレまみれトングがバランスを崩して暴れる。何度も落としそうになり、ドーナツも落としそうになる。
そんなことをしている間に3人ほどにレジへの順番を追い抜かされた。
ようやくレジにトレーを置き、「すみません、そのドーナツのビニール剥がれてしまって・・・」と店員さんへ伝えた。
「大丈夫ですよ!」と言って、元気よくドーナツたちを袋に詰めてくれた。
いや、大丈夫じゃないんです。タレが他のドーナツについたら、他のドーナツたちが大丈夫じゃないんです!!!
思ったが、もちろん言わない。
袋に詰められたドーナツを受け取り、両手で大切に抱えて帰った。
私は本当に、この手の失敗が多い。ドーナツをトングで回収してレジで会計する。たったこれだけをなぜスムーズにこなせないのか。なぜあれほどどんくさいのか。
帰宅して、ドーナツを家族人数分に切り分ける。ひとりの取り分は小さくなってしまうが、私はこうした方が美味しいと思う。
全部食べ切る頃には、さきほどのしっぱいはもう忘れていた。
午後半休
今日はあらかじめ午後半休をとっていた。
午前中のうちに最低限の仕事を済ませ、帰り支度をし、「お先に失礼します」と周りに声をかけ、すみやかに会社を出て、電車に乗る。
ただこれだけのことなのに、私は必要以上に思考を巡らせてしまう。
まず月曜早々に半休とりやがってと思われていないかという不安。周りが仕事しているなかをすり抜けて颯爽と退勤することへの後ろめたさ。一番声をかけるべき上司は席を外しており、その他座席に残る人たちは正直あまり話したことがない。挨拶して気づかれなかったらどうしよう。
必要以上に思考を巡らせ、そしてしっかりと空回りする私は、コソコソと音も立てずに帰り支度を済ませ、座席から一番近い扉 ではなく、わざわざ離れた扉へ向かってダッシュした。誰にも声をかけられず、かけることもなく。今だけはどうか、誰にも見えない透明人間でありたかった。どうぞ私のことは気にせず、引き続き仕事してくださいませ。
エレベーターでビルのエントランスに降りたところで、我に返る。
いっぱしの社会人ともあろう者が、ろくに挨拶もせず職場から帰るだなんて。なんて情けないんだ!?
私っていつもこう。いい歳して恥ずかしい。こんな自分が嫌いで泣きそうになるし、こんなしょうもないことで泣きそうになる自分が嫌い。
ちょうどそのタイミングで電話をかけてきた恋人に、「私は私が大嫌い!!!」と(これも必要以上に)まくしたて、少しだけ落ち着いたので、駅の改札に向かった。